ついこの間、ヴィパッサナー瞑想の合宿に行ってきました。
飛行機で羽田に着くと、北海道とは違い随分春めいた雰囲気。
ベランダから咲きかけのこぶしの花が見える道場で、全く観光せずに瞑想していた時の感想を少し書き残したいと思います。
普段、家族と過ごしていたり仕事をしていると、どうしても思考から離れられないものですが、それは人間として生き抜こうとすると、どうしても「考える」を武器にしないと生きていけない、ということでもあります。
目も鼻も耳も身体の強さも、他の動物より優れているわけではない人間にとって「考える」ことが環境に対しての最大の武器であり、脅威をさけて利益を得る手段を探すこと。
すなわち、生存そのものを支えている行為とも言えます。
ところがヴィパッサナー瞑想中は、その「考える」行為を徹底的に停止させ「観察」に集中させます。
それを24時間やってると、やっぱり普段気づかない視点が芽生えてきます。
本当にうまく行かない時の瞑想中は
「何でただ観察するのがこんなに苦痛なんだ!」
と叫びたくなるぐらいに妄想に流され、意識があちこちに飛びますよね。
人間の脳の中で最も発達しているのは大脳にも関わらず、「観察」という大脳の本来の機能だけを瞑想という形で純粋に使おうとすると何故か全くうまくいかない。
ところが今回24時間、切れ間なくヴィパッサナー瞑想をしていると、どんどん妄想が落ちてくるのが顕著に分かりました。
本読まない、ネット見ない、お食事はすべて作っていただける環境。
そのため、普通はいろいろな活動をするためにしていた思考をする必要がなくなり、普段の思考から玉突き的に発生していた思考が起こらなくなってくるためでしょうか。
何もしなくとも自然に瞑想に集中できるようになった最終日前日の夜、瞑想中に思考を起こさせているものを感じるようになりました。
日常では感じる暇もない「在りたい」「変えたい」という絶え間なく続いている心の力のようなもの。
妄想を後押ししている力を感じとったとき、それまででも随分収まっていたにも関わらず、それでもびっくりするぐらい妄想の波が静まりました。
「ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤ2 (岩波文庫 青 329-2)」という岩波書店から出版されているパーリ語経典「サンユッタ・ニーカヤ」の後半では、よく悪魔が退却していくときにこんなフレーズを唱えて消えていきます。
「私のことを知っておられるのだ。」
「気づく」ということが不要な思考や、それから起こる悩み・苦しみということを退けるのに有効な手段だという知識が、体験に結びついた瞬間だったなぁ、と今となってみると思います。
普段気づかないレベルでこの力に押されて思考して、さらにその思考が派生して思考を呼んでいくという考えることの連鎖。
日常生活に戻った今、生きていくために・家族を養うためにも思考をすることは避けられないのですが、せめて自分から不要な思考を作り出す機会はなるべく気づいて避けていけるようになろう、そんな気持ちでいます。
ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤ2 (岩波文庫 青 329-2)
- 作者: 中村元
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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