ヒグコハ

子供と一緒に遊び、瞑想。

自分をバグらせないということ

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いろいろ嫌なことや辛いことがありますが、その根っこ、バグってない?

というお話です。

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目次

生き物の認識は感覚と判断でできている

人間が外界を認識するときは素のままの感覚がまず来ます。

赤い、熱い、辛い、高い音、ざらざらする、などですね。

ただ面白いことに、生き物はそれで終わらないようにできてます。

例えば、赤くて辛くてつるつるしていて小さくて細長いものに「トウガラシ」と名前をつけることができます。

(これは緑色のシシトウですが)

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また、それを食べて汗が止まらなくなったりお腹が痛くなったりすると、さらに「あれはあんまり好きじゃないなぁ・・・」とか感想を付け加えることもできます。

そしてそれを生きていくうえで、無数の感覚に対して物凄い速度で、また無意識に行うことができます。

つい先日、AIと人間の大きな違いって何でしょうね?という話を友達としたばかりですが、たぶんその一つに感覚(というデータ)から、「判断」という新しいプログラムを作り出すための「命題」を自分で変えられる、という点が挙げられるのではないかと考えています。

AIはルールベースと、ディープラーニングという2パターンがあり

・特定のデータと特定のルールを与えておけば、ルールの中でさらに最適な方法を編み出していくことができるルールベース

・命題を与えておくことでその中で答えとして確率の高いものを探し出すことができるディープラーニング

という違いはありますが、いずれにしてももともとの「命題」を自分で選べないという点で人間と大きな違いがあります。

ちょっと話がそれた感がありますが、人間はみな毎日新しい製品に名前をつけたり、新しいものに感想を書いたり(Googleマップで行先のレビューを書くのが実は密かな楽しみだったりするのですが)、毎日「判断」に忙しいです。ですが「判断」しているってこと自体、意識しないことが普通だと思います。

でも皆生き物なので「生き続けること」を根本命題にしてずーっと判断しています。本能そのものなのでとっても根深いです。簡単にはやめられません。

ところがこの判断、結構頻繁にバグります。

判断が環境に合わないと、苦しい

判断が作られる時の環境と、今この時の環境は確実に違います。

今この一瞬でもすべての物質、心の状態は激しく変化しているので、完全に同じ状況はありえません。

当然、当時の判断が正しいという保証はどこにもありません。だから判断はほとんどが「バグっている」と言っても過言じゃないのです。むしろ一致している方がレア。

ですが、生きるために自動でどんどん作られていく判断は、その本来の目的が「生き続けること」のためか、不一致を起こすことを極端に嫌う性質があります。

別の言葉にすると、「判断は自身を否定されるのを本能的に嫌がる」のです。

自然界の生命は非常に厳しい環境で生きています。一瞬のミスが、たった一回のミスが命の喪失につながります。

そのギリギリの世界で身に着けた「判断」を曲げる、ということは、本能にとってみるとわざわざ自己を命の危険にさらしているようなものです。

幸い、人間は知恵で環境を自分自身が安全になるように作り変えることができていますのでそう簡単に判断ミスで即お亡くなりになることは少なくなってきていますが、ようやく安全と言えるようになってきたのはここ数百年程度ではないでしょうか。

生命45億年の歴史の中では瞬きのような期間です。本能がこのわずかな時間で長年保持してきたポリシーをそう簡単に変えるなんてありえません。

だから判断が現実と合わない、また判断を変えようとすると人間はとっても苦しいのです。

判断している自分に気づき、感覚を見直す

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この判断は山ほどある上、そもそも普段から判断していることと感覚の違いを意識する習慣をつけていなければ、どこまでが判断で、どこまでが現実の感覚なのか区別することもできません。オートマチックに処理して、反応してしまいます。

なので「~が嫌だ」という判断を一度下してしまうと、同じ対象に出会う度に毎回同じ嫌な気持ちを抱くことになってしまいます。それが判断当時だけのことで、今は違っていたりしても。また、一度極端な判断を下してしまうと現実と判断の違い、また他の人との判断の違いによるトラブルで長いこと苦しむことになってしまいます。

また、判断は対象から得られる情報量を極端に削ってしまうという難点もあります。本来ならその対象から気づくこと、学べることがあっても判断という枠組みにはめてしまうことで、その枠組みから外れた情報をすべて捨ててしまいます。これは判断する速度を可能な限りあげるための自然の仕組みです。命が危険な時は、一瞬でも早く動かないといけないですよね。

でも、本当にその情報捨てるべきなんでしょうか?

本能が作り出した判断に踊らされて、強制的に反応させられていることがないですか?生きるためだけであればずっとそれでもいいかもしれませんが、人間ってそれだけでいいのでしょうか?

・・・ということをほんの少し考えてみると、瞑想やマインドフルネスが心の健康に良いとされる理由、セラピーなどで今ここを見るように指示される理由が何となく分かっていただけるのではないでしょうか。

今この感覚をしっかりと確認することで「あれ?これバグった判断してない?」という気づきがあれば、そのバグの働きを弱めたり、逆らうことができます。するだけで苦しくなる判断があるのであれば、それを見つけておくことに越したことはないですよね?

と、いうことで気づきが少しでも増えるように、今日も少しずつ冥想を続けていこうと思います。されている方は一緒に頑張りましょう。

皆様が幸せでありますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。

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