精神科医で瞑想の実践もされている名越康文さんと、スマナサーラ長老の対談を記した『浄心への道順―瞑想と覚りをめぐる初期仏教長老と精神科医の対話―』を読みました。
その中でも「もう先生は瞑想という言葉は使わない方がいい」という発言の背景を記します。
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目次
宗教に関連する言葉が思考停止を招く風潮
本書はテーマ別に瞑想について、自我について、生きるためになすべきことについて章立てされています。
各章では対談らしい自然な流れで主題について様々な説明や見解が示されるのですが、その中でも瞑想をどう捉えるかについてのお話は多くの方に読んでほしいです。
特にこのあたりの話の流れ。
- 今の日本では生活と宗教の溝が大きくなり、かつてのように身近な存在ではなくなった結果どんどん宗教のイメージが悪化
- そのため、「瞑想」のように宗教と関連の深い用語が出てくるだけで大抵の人は「あ、宗教は結構です」となって話を聞かなくなってしまう
- これはもったいない
周囲の人に瞑想について説明をしようとした際の反応を何度も見ている自分としては「あー、うんうんそうだよね・・・」となってしまいました。
宗教や関連する用語に対して「胡散臭い」「怪しい」「信用できない」という固定観念が強すぎて、一瞬で相手の思考停止を招いてしまう。
名越先生も学生たちに対して瞑想の話をすると、決まってここで戸惑っておられる様子。
これに対して長老の言葉が
「もう先生は瞑想という言葉を使わない方がいい」
でした。
吃驚仰天です(きょうび聞かないですね、この言葉)
言葉を学ぶため発声器官はトレーニングを繰り返すのに・・・
長老が仰るには瞑想で身に付けてほしいのは頭や心の使い方とのこと。
たとえ話で発声器官の話が出てくるのですが・・・
- 言葉を話せるようになるためには舌や喉などの発声器官があって、言葉を知っているだけでは話せるようにはならない
- 発声練習が必要で、それが終わって初めて言葉を話せるようになる
- だが頭だけはみんなトレーニングせず、原始脳の感情や反応の奴隷となった状態
とのことでした。
トレーニングしないでどうやって正しく使えるの?と質問してくるのですが、確かにその通り、うまく使えてないから色々な問題が起こるわけで。
「だから、これからは頭のトレーニングという言葉を使った方がいい」という指摘はなるほどなあと思いました。
最近はマインドフルネスという単語も色々なところで使われていて、想定しない概念がくっついてくることも考えられます。
その意味では変な疑いを持たせることなく瞑想の手法をお勧めするにはもってこいなのかもしれません。
その他のお話もお勧めです
瞑想という言葉について以外でも
- ディシプリン(discipline)の重要性
- 観察することによって生まれてくる智慧
- 自由に生きるには
のような興味深いテーマがいくつもあり、どれも参考になりました。
一度手に取ってみることをお勧めします。
浄心への道順―瞑想と覚りをめぐる初期仏教長老と精神科医の対話―
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ,名越康文
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2016/07/26
- メディア: 単行本
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