「大人の療育」の話題が挙がっています。
それなりに最低限の意志の疎通が出来ているとは思うので、自己モニタリングとかパニックを起こさないコツであるだとか、受けられるものなら受けてみたいです。
一方、成人した発達障害者向けのサポートがほとんどないのは「デフォルトである~に順応すべきだ」という価値観があるからのような気がします。
そしてお金にならないから。
【書いていること】
- 療育の第一目標はなに?
- どうしてこちら側が変われ、という話ばかりなのだろうか。
- お金さえ稼げれば、何とかなるのか?
療育の第一目標はなに?
療育の目標って
「社会に受け入れられること」
ではなく、
「発達障害の特徴が発達障害の当事者にとって苦しみと捉えられなくなること」
だと考えているんですが、どうでしょう?
「苦しみ」と捉えられなくなることとは、発達障害の特徴の消失を意味していません。
というか、器質に近い部分の差異をそう簡単に埋めることは現実問題として難しいでしょう。
例えば会話のトレーニングによって「極端に相手に嫌われる」ことは防げても、「人気者」になることは困難の極み。
であれば、「苦もなく楽もなく」程度に持っていければOK。
あくまでも本人が自分自身の特徴に苦しまないようになれば充分だと思うのです。
自己モニタリングとかも同じこと。
中には、環境を調整できればトレーニング自体不要なものがあるかもしれません。
どうしてこちら側が変われ、という話ばかりなのだろうか。
先の結論からも分かりますが、療育の話は発達障害当事者だけが行うと完全に片手落ちなんです。
社会の側も発達障害が無い事を常識とする価値観を手放して欲しいなあと。
それでないと「療育」などの用語が知られるようになればなるほど、「デフォルトである~に順応すべきだ」という価値観が発達障害者の排斥を目標とする可能性がある。
「療育」という単語が双方の壁をさらに明確に広げる概念であったり、その橋渡しとしての用語として使われないように気をつけなければならない。
あくまで、双方に関連する用語としての「療育」としなければならない。
発達障害の当事者だけが努力しなさいという話ではないよーとするだけで随分パターンが広がりますよね。
その辺りの価値観を変える気があんまりないと、「入っていけるゴール」が魅力的にならないし、せっかく療育を受けても活躍の場が極端に少なくなってしまい社会にとってもコストに見合わない結果になってしまうんじゃないかなあ。
あ、もちろんTwitterとかで議論されているセルフコントロールが出来なくて簡単に周りとの信頼関係を壊してしまうとかは大人であっても本人や周りが積極的にサポートできる環境を整えることが急務ですが。
お金さえ稼げれば、何とかなるのか?
例えばデイケア、就労移行支援施設などでの低収入労働だけが働き先じゃないし、そこで働くためだけの「療育」であれば双方割りに合わなさすぎ。
要は「お金にならない」ので、いつまで経っても着手されない。
そう考えると「お金の儲け方」をもっと知る必要があるのかなとも思う。特にこの辺り。
- 発達障害者が活躍するモデルケースの整理
- 規範、均一性以外の生産性を高める方法の提示
正直、社会の管理者側なんて「お金さえ稼いでくれればどうでもいい」と思っているのが現実でしょう。
じゃあどんどん発達障害の特徴を生かした職業のモデルケースを整理していって、情報共有する。
場合によっては新しく仕事を始めちゃう。
面倒かもしれないけど、そうやって出来た研究チームや専門職集団が活躍していけばそのゴールに向けて大人の療育の考え方自体が大きく変わってくるかもしれない。
同じく組織の管理を個人への規範、均一性にゆだねるのではなく、契約や作業パターンの整備で出来るようにしてしまうとか。
方向性としてそんなに間違っていないと思うのだけど、どうなのかなあ。