先日頂いた冊子『善に達するチカラ 忍耐・堪忍の本当の意味』*1より一部を抜粋しつつ、今、正しい方向へ向かっているかどうかの判断を一瞬で終わらせるための着眼点を整理します。
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目次
ブッダの説いた3つの偈(げ)
一切の悪を犯さないこと
善に至ること
自らの心を清めること
これは諸佛の教えである
「正しい方法」がどのようなものかというのを初めから全部知っていたら誰も苦労しません。
『諸仏の教え』と名付けられている偈(Dhammapada183-185)をキーワードとしてこの冊子はスタートしますが、長老が説くように難しい論理ではなくシンプルな方法が説明されています。
「真理とは何か?」というような、難しいことは語られていないのです。
真理に達する方法を語られているのです。
瞬間瞬間で判断を行うには、多くのことを比較検証することは出来ません。
迷ったときに最も参考とすべき、簡潔な方法をまとめた偈といえるのではないでしょうか。
一切の悪を犯さないこと
自分の知っている範囲の悪をやめることから仕事は始まるのです
知らない環境、特に自分が無知だと自覚していると「何を成すべきか、成さないべきか」に悩むことがあります。
仏教では五戒のように、明確に「ダメです」という項目もあれば自分で「善くない」と分かることもあります。
まずそれをやめるというのは対象がはっきりしていて、瞬時でも判断できますね。
「悪を犯すな」という「命令」ではないのもポイント
犯すなかれとは命令なので、命令した人にばれないならば、隠れてやっても構わないと思うこともあります。
命令されると、人の心が萎縮します。
人に命令することは、世の中で普通に見える現象です。
しかしそれは、正しくないのです。
指令によって相手の尊厳が縛られるのです。
個人の尊厳を完全に失わない限り、指令を完全に実行することはできないのです。
無条件に他者の命令に従っている、という過ちを避けるポイントとしては
- 「隠れてやれば」という意識がないか
- 心が萎縮していないか
というチェックが出来そうです。
善に至ること
親が怒って、興奮して、苛立って子供を躾すると、どうなることでしょうか?
子供のことを心配して躾しているのです。
子供を恨んではいないのです。
しかし、躾をする大人の心は派手に汚れていくのです。
「私は怒ることも苛立つこともしない。興奮することもしない。落ち着いた心で躾をする。微笑みながら躾をする。」
それは善行為をするより先に、「善になる」ことを実行したことになります。
ついつい、「善いことをする」ために心を汚すという過ちを行ってしまいますがそうではなく「善になる」ことの方を先に実行するのが重要。
心を汚さない、ということを徹底するということですね。
自らの心を清めること
問題は、私たちは他人を騙す前に自分自身を騙すことです。
自分が善人だと、勘違いしているのです。
「これは善思考だ、これは悪思考だ、これは悪感情だ、これは善い感情だ」と発見すれば十分です。
最初から、心を清らかにしなくてはいけないと思っていたので、「悪思考だ、悪感情だ」と発見するものについては、「二度と起こしたくない」という気持ちが起きます。
善思考・善感情については、「さらに続けて完成したい」という気持ちが起きます。
ただそれだけです。
心は徐々に清らかになっていくのです。
自分の良い面だけを見るのではなく、細かく思考と感情をチェックして、
悪い部分を減らそう、善い部分を増やそうとする習慣をつける。
今この瞬間の心の確認を絶やさないことが何より大事ということですね。
まとめ
今、正しい方向へ向かっているかどうかの判断を一瞬で行うポイントとしては以下になります。
- 悪行為、悪感情ではないか
- 「善になる」ことを基準とした行為・感情になっているか
- 常に心の状態を観察して、この判断を続けているか
常に今を観察していないといけない=流されていてはいけない。
常時気づきを入れる習慣が重要ですね。
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*1:
2014年3月初期仏教月例講演会のスマナサーラ長老講話を元に作成された冊子。
今回の紹介部分は第一章「善に至る方法」部分のみとなります。