最近、実家が近くなったこともあり以前よりも頻繁に両親の元を訪れるようになりました。
その際に、以前はあまり気に留めていなかったことに気が付きました。
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常に善い心で日々を過ごす、ということの難しさ
ちょうど、「ブッダの実践心理学」の7、8巻の合冊版が発売されたということで復習として自宅にある第二巻を読んでいたところ、以下のような一文が目に留まりました。
有行と無行の二つを合わせて、欲界の善行為の心は全部で八種類になります。人間がする全ての善行為はこの八種類の心でやっています。勉強する、仕事をする、料理する、掃除洗濯をする、これら普通の行為を善の心八種類のどれかでするならば、そのまま善行為です。
改めて見ると、よーくよーく考える必要がある言葉です。
私のような凡夫では「やっていることが他人の為になっていればいいんじゃない?」とか軽く考えてしまいます。
ですが、その行為の結果「悪心所」(怒り、異常な欲、ぼーっとしているなどの暗い心の状態)が心の中に残ってしまえば、どうしてもその後の行動が悪くなってしまう。
また、新たな発見も見つからず、心も成長しない。
その上、どうもやっていることがうまく行かない、効果がない、新たなトラブルを呼び寄せる、ということが経験則上はほとんどのように感じます。
結果として全体がどこかしらやる前より悪くなる。
だからどんなことがあっても、常に明るい心でいた方が得なんですね。
明るいというのは楽しいとはちょっと違って、心に悪心所が無い状態のこと。
だから楽しくなくとも必要なことを淡々と「当たり前」としてできるよう心をトレーニングしましょう、というのがスマナサーラ長老などが良く言われていることですが、これがなかなかに難しい。
子供のしつこいアプローチや、コロコロ変わる要望に対して根気よく付き合ったり、適度に話題をそらせるなどしつつ、日常生活をスムーズに送るための家事を明るい心で出来れば良いのですが、どうしてもイライラしたり、無理やり黙らせる方法をとってしまう時がまだまだあります。
ところが、今日実家にいくと身近なところで出来ている人がいました。
実の父です。
工夫しようという気持ちが明るい心を生んでいる
父は普通のサラリーマンで、特別に社会的に目立った業績を残したわけでもありません。
ただ、人の悪口をいったり、怒ったりすることは本当に数える位しか見たことがありませんでした。
そんな父の特徴は何でもかんでも「身近にあるもので何とかならないか?」と工夫してみること。
納屋でも船でもストーブでも、とにかく何でも作ります。
今日も長男の「ポッポ時計」(時間がくると鳩とかが飛び出てくる時計のことです)を作ってほしいという無理難題を聞きつつ、結果的に大好きなポケモンのキャラクターが扉を開けたら出てくる仕組みを段ボール箱だけでほとんど作ってしまいました。
貴重な休みの午後を潰して、息子のむちゃくちゃな説明を根気よく聞いて、出来る範囲で楽しくなるように最大限の考慮を尽くす。
工夫し続ける父は真剣ではありましたが、とても爽やかな表情を常に浮かべていました。
その真剣かつユーモアを加えつつ作成する姿に、一人の人間として改めて尊敬の念を覚えました。
まあ、今までの私の目が節穴だっただけとも言えますが・・・
身近なところにも、職場にも、交友関係にも、淡々とするべきことを出来る方というのはいるものですが、もっともっとそういう方がいることへの感謝と尊敬の念と、日々近づけるように努力することを欠かさないようにしなければならないなぁ、と改めて思った休日でした。