少しでも良い方に向かっていれば、今はその方法でいい。
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目次
それは座れたほうが落ち着くかもしれないし、疲れないかもしれない
いきなり真逆のことを言うようで恐縮だけど、まとまった時間が取れて、集中して瞑想出来るならそれに越したことはない。
だけど私のような凡夫は仕事、家事、勉強と、生きるために時間を沢山使わなければいけない。
どれもやったそばから壊れていったり、別なものになっていたり、終わりのない作業だけど、変化していないと生きていけなくて、生きるために常に変化する。
ややこしい言い方をしたけれど、要するに常に動き回っていないといけない。
実際、体は動かしっぱなしだ。
仕事のために出勤し、パソコンのキーボードを叩き、会議をして、帰宅して、ご飯の準備をして、子供たちを風呂にいれて、明日のご飯を炊いて、ちょっとだけ筋トレしたり勉強するとあっという間にこんな時間。
だけど、だからといって瞑想が出来ないということにはならない。
ドアノブを回すのだって瞑想
長老の言葉をお借りすると、「ドアノブを回すのだって瞑想」だそうだ。
呼吸の瞑想だって、座る瞑想だって、何かの動きを実況中継して、その感覚をしっかり追っていくことに他ならない。
ドアノブ一つを回すことだって、手の感覚、回すことの実況中継が出来ていれば、その数秒は立派な瞑想だ。
心を鍛える上では長い時間(45分とか)を決めて、動かないことで心の筋トレをする必要があるが、瞬間に対象を正しく認識している間は確実に心は落ち着いていて、良い方向に向かっている。
心は瞬間で綺麗になるし、瞬間で汚れる。
なら綺麗な瞬間をいっぱい作れば、必然的に心は良い方に向かっていくはずだ。
そしてそれなりに長いこと(もう7年以上になるが)瞑想をやってきたが、
「今日は何分座った」「今日は何回歩く瞑想をした」と瞑想回数を数えている時よりも、
横断歩道を一歩一歩足の感覚を確認しながら渡ったり、
地下鉄で一駅分だけ両足の感覚に集中したり、
会議室のメンバーの顔を「色」として眺めたり、
声を「音」として聞いたり、
お弁当を「味」として感じて、
考え事を「思考」として眺めるタイミングを
ちょこちょこと自然に加えられる今のほうがずっと落ち着いている。
手段は目的じゃない
集中できるようになりたい、能力を向上させたい、不思議な体験がしたいというために瞑想する人は結構多いし、自分もその中の一人だったので別にいいとは思う。
ただそれらの幸せになるための手段にこだわってると色々もったいない。
ぶっちゃけ、心を綺麗にできるなら瞑想すらしなくていい。
そのあたり仏教はよくできていて、五戒を守るだけでも心を不安定にする要素から自分自身を遠ざけることが出来る。
悪くならなければ自然と善くなるチャンスが出来る。
もちろんそこで頑張れる人は頑張ったほうがいいけれど、心が疲れ切っていたり、悩みの真っただ中にいて瞑想できるだけの力が残っていない人にもちゃんと道が示されている。
マインドフルネスに物足りなさを感じるのはそのあたり。
せっかくの仏教の心を落ち着かせたり綺麗にするフルセットの一部だけ取り出しちゃったので、その人の状態に合わせたアプローチが難しくなっている。
なので、瞑想できるほどの気力が持てない、という方は生活習慣を参考にするという意味で仏教を眺めてみるといい。
ちゃんと今の状態にあったアプローチが説かれている。
瞑想だって現象をよく観察して智慧を得るための手段だってことがすぐに分かる。
まとめ
この一息に集中して新しい発見をしよう。
集中出来なくても、いずれ集中できるように生活習慣を整えよう。
今の状態に合わせた適切な方法は必ずある。
今の結果には必ず原因があるから。
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