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ヒグコハ

子供と一緒に遊び、瞑想。

初期仏教から実践と信仰の比率が変わっていった背景には共通した○○があるよね

瞑想

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この記事の概要

  • 何で初期のブッダの説法が日本に伝わるまでに変化したか、2つの転機から見る
  • 2つの転機の背景には共通したものがあり、その背景に対しては「信仰」が大きなメリットとなった
  • でも「信仰」で失われるものもあった。それは何か
  • 瞑想は「信仰」入れると皆困惑するので理論と実践報告ベースでやってきます報告

「人生トレーニングマニュアル」がいつの間にか「仏様凄い」になったわけ

個人的には初期仏教と日本の仏教はレンコンと蓮の花位違うと思っております。

どっちがおいしいとかそういう話ではありませんw

案外知らない人が多いのですが、初期仏教と日本の仏教は根っこは一緒なのに、いつの間にか全然違うものになってしまっています。

ざっくりと歴史的経緯をお話ししますと

  • ブッダ(歴史上に実在する人物であるゴータマ・シッタルダ)が中道、四諦、八正道、十二縁起に基づく説法を行う(この辺別記事予定)
  • ブッダ死後程なくして、弟子たちが集まり説法の記録を集約する
  • その後数百年の間に生活習慣・社会組織の変化に合わせ僧侶達のグループ(=サンガ)も多数に分離し、特に民衆よりの集団から「大乗仏教」が出来た

となっており、この「大乗仏教」が日本の仏教として伝わっています。

大乗仏教には2つの転機があったと考えているのですが、その中でも実践と信仰の比率が変わっていく宗派には共通した背景があり、それは今において瞑想に触れる私も心に留めておかなければならないなあと思い、この記事を書きました。

(※)なお、この後説明する「菩薩」が悟るための修行の段階である「六波羅蜜」という概念や、大乗仏教に応じた戒律(ルール)・論(お経の解釈)などを元に発展した日本の宗派もあります。これらについては当てはまらない箇所もありますのでご了承ください。

大乗仏教になることで「死後の世界」が仏教に現れた

まず1つ目の転機として、ブッダが悟る前に前世で修行を積んでいたという伝説から、修行中の仏である「菩薩」という概念が発生したことです。

この「菩薩」の概念が出来たことで「今生では悟れなくとも、なすべきことをなしていればいつかは悟れる」というある意味悟りまでの猶予期間を設けることが可能になりました。

何故発生したか、には現在の研究でも諸派ありますがブッダの説法内容を忠実に実践する余裕の無い大多数の市民にとって救いとなる解釈であったことは疑いがありません。

彼らの「悟りたいけどそんな時間もお金もないよ!どうすりゃいいの」という不満に僧が応えた側面は確実に背景にあるでしょう。

ただ一方で「死後の世界」について語っていなかった仏教に「死後の世界」の概念を盛り込むきっかけにもなってしまいました。

さらに「自分が修行しなくとも菩薩と仏が凄いから皆救われる」に

2つ目の転機として「他力」や「廻向」の概念の発生があげられます。

シンプルにいうと「修行をしていない人も救済できる」概念が仏教に入りました。

ブッダに対する尊敬が崇拝メインに変わったタイミングはここだと思っています。

ともかく、徳の力が凄ければ修行していない他人も救うことができるという解釈に沿って新たな経典や宗派が発生しました。

日本でいうと浄土真宗がほぼその極みに達していると思われます。

例えば、私の実家は浄土真宗ですがざっくりこういう教えです。

  • 人が頑張らなくても仏(ここではブッダというより阿弥陀仏)が救ってくれる
  • 救いを求めた時点で既に救われている
  • 感謝の表現として念仏を唱える

ここまで来るともう「修行することで自分の人生の苦しみを減らそう」という最初期の教えとは遠く離れた所に来てしまったことはお分かり頂けたのではないでしょうか。

前の要望にさらに一歩進んで「全く修行できない!」人に対応した教義ともいえますが・・・

修行しなくて良いのはやっぱりデメリットも大きかった

修行しなくて良いメリットは

細かい生活のルールを守る必要がない

これに尽きると思います。

ところが、これは本来の初期仏教の「心を乱す原因と深く結びついている行動は苦しみを減らす観点からはしないほうが良い」という内容をごっそり削る結果を生んでしまっています。

苦しむ人を救うために考えた結果、実践的に苦しみを減らすロジックが失われてしまったというのは何とも皮肉な話だと思いますが・・・

「時間と余裕がない」時の「信仰」は人生における一つの合理的戦略

どちらの変化も共通して「時間と余裕が無い」という訴えがあると思いませんか。

週休2日とか有給休暇とか社会保障制度とかない昔の人がブッダの説明を全部理解して聞く余裕はほとんどなく、あったとしても裕福なごく一部の人か、出家して布教に人生を捧げた僧侶かのいずれであるわけで。

そういう社会情勢では、実践できなくとも縁あって出会った良いものを「信じる」というのはとても合理的なことだったと思うのです。信仰は人生に時間が無ければ無いほど作戦としてはアリ、になってくるのは当然のことだったのでしょう。

どっちが優れている、とかいう話にはならないと思います。全く需要が異なるので。

ただ客観的な効果を報告するには「信仰」を除いて理解・実践・検証をしないといけない

 ただ、瞑想があまり普及してこなかった大きな原因の1つがこの「信仰」のせいであると断言して構わないと思います。

実践とそれに伴う理論を明確にしていかないとすぐに宗教チックになってしまう。それでは興味を持った人が困惑したり拒否反応を示してしまいます。

せっかく良くても使ってもらえないなら、とんでもない損失。

なので瞑想については「信仰」にならないよう関連理論と実践結果の報告、充分に続けていきたいと思います。

その際に背景となった宗教的要素(ヨガの思想であったり、仏教の考えであったり)に触れることはありますが、関連理論の研究ということでご理解いただければと思います。

まとめ

  • 初期のブッダの説法と今の日本の仏教はもうほぼ別物です。その中でも実践と信仰の比率が大きく変わった宗派が誕生した背景には「時間と余裕が無い」ことによる「信仰」への需要が大きいと思います
  • 「信仰」でやり過ごすのも人間いろんな時があるのでアリだと思いますが、理論や実践方法など、失われるものもありました 
  • 瞑想は「信仰」入れると皆困惑するので理論と実践報告ベースでやってきます

こんな結論に自分は落ち着きましたが、皆さんいかがでしょうか。